オスマン帝国400年の歴史!イスタンブール・トプカプ宮殿とハレム

公開日 2021年11月8日 最終更新日 2021年11月8日

1453年、オスマン帝国皇帝・メフメト二世は、陥落不可能とされていたコンスタンティノープルを落とすことに成功。あまりにも長く続いたローマ帝国の歴史にピリオドを打たせた歴史的瞬間を演出したのは、征服王・メフメト二世であった。その7年後の1460年にトプカプ宮殿(Topkapı Sarayı)が建てられ、1856年にドルマバフチェ宮殿に移るまで約400年にわたって、ここトプカプ宮殿は、歴代の皇帝(スルタン)の居城だった。増築や改築を重ね続けた歴代のスルタンは、どういうお部屋でどんな暮らしをしていたのか?日本で販売されている、どのガイドブックよりも詳しく書いちゃおう。

 

追記※長い記事です。1ページ目:博物館入口までと外廷エリア、2ページ目:皇帝と家族の内廷エリア、3ページ目:ハレムになっています。
※この記事は、トプカプ宮殿公式HPに基づき作成しています。一部、日本で発売されているガイドブックと内容や日本語訳が異なることがあります。

イスタンブールの歴史を簡単に

トプカプ宮殿/イスタンブール・トルコ

イスタンブールが”〇〇帝国の首都”であった期間は、330〜1922年の間、およそ1600年間。ローマ帝国(330-395)、ビザンチン帝国(395-1204、1261-1453)、ラテン帝国(1204-1261)、オスマン帝国(1453-1922)と4つの国にまたがる。1923年、トルコ建国の父ケマル・アタテュルクは、首都をアンカラと定めトルコ共和国を建国。首都ではなくなった今も、ヨーロッパと中東をつなぐ重要な都市であり続けている。

昔のボスポラス海峡/イスタンブール考古学博物館

ローマ帝国より前、イスタンブールで都市・国を成立させたのは、古代ギリシャの国・ビザンティオン(ビザンツ・ビザンチン)であったらしい。

トプカプ宮殿の歴史

トプカプ宮殿/イスタンブール・トルコ

コンスタンティノープルを征服した皇帝メフメット二世がまず最初に建てた宮殿は、現在のベヤズィット地区、イスタンブール大学がある場所にあったらしい。

イスタンブール大学の門

1460年~1478年までの間に、オスマン帝国皇帝メフメト二世は、新宮殿(Yeni Saray)建築に着手する。コンスタンティノープルを征服した王が最初に建てたのは、宮殿ではなく、キオスク(Köşk:あずまや)だった。このキオスクは現在、装飾タイル博物館として現役で利用されている。

装飾タイル博物館/イスタンブール・トルコ

新宮殿が完成したのは、1478年頃。古い宮殿は「旧宮殿(Eski Saray)」とよばれ、ハレムのみが旧宮殿に残された。トプカプの名前の由来は、第22代皇帝マフムト一世によって名付けられたとされ、ビザンチンの城壁と礼砲の近くにあったトプカプ海岸宮殿(Topkapusu Sahil Sarayı)が火災で焼失した時から呼び名がついたらしい。三大陸を手中におさめた大帝国の皇帝の居住・トプカプ宮殿は、19世紀まで続くことになる。その間、各皇帝によって増築と改築を重ねられ、1850年初頭、式典開催等に支障をきたすといった理由で、ボスポラス海峡沿いにある、ドルマバフチェ宮殿に移されることとなった。

ドルマバフチェ宮殿/イスタンブール・トルコ

第一次世界大戦を経て、1922年に王制を廃止、オスマン王家は事実上の国外追放となり、共和国制へと移ることとなる。1924年4月3日、建国の父:ケマル・アタテュルクによって、トプカプ宮殿とドルマバフチェ宮殿は、博物館として一般開放されることになった。

トプカプ宮殿の見どころ

第一の中庭

第二~四の中庭とハレム

宮殿に従事する人々は、外廷(ビールン)と内廷(エンデルン)2つの組織のいずれかに従事していた。東京ドーム15個分に相当する70万㎢の敷地内には、国政用の建物、皇帝の住まいとなる宮殿、使用人の住まい等があり、中庭の中にそれらの建物を配置している。これらの中庭は、4つのセクションに門で区切られている。

皇帝の門/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

皇帝の門から見て、最初の中庭は公共のスペース、次の中庭は政治的なスペース(外廷)、三番目の中庭は皇帝の私的なスペース(内廷)、四番目は皇帝のための庭園とハレムエリアだ。

第一の中庭(公共エリア)

第一の中庭/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

皇帝の門をくぐって最初の中庭は宮殿内で唯一、一般市民等が入ることが許された場所だ。木々が生い茂る公園のようになっていて、一番広い庭であったことから、毎週金曜日の閲兵式などの式典にも利用されていたそう。

水位調製施設/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

皇帝の門を背後にして、向かって右側には、エンデルン病院、衛兵詰め所、パン屋、研究所、水道関連施設がある。

アヤ・イレネ聖堂/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

向かって左側には、第一の中庭で最古の建物、アヤイリニ聖堂とレストランなどがある。市民等が意見を上申できる場所として、Deavi Kasrı(デアヴィ・キオスク)があったようだが、今はその形跡のみ残っている。
※第一の庭は入場無料だけど、アヤイリニ聖堂入場には別途入場料が必要。ユスティニアヌスとテオドラにご興味がある方はぜひ。お知りになりたい方は、北川景子さんの『悠久の都 トルコ イスタンブール~二人の皇后 愛の奇蹟を辿る』がとても詳しく解説されていたので、ぜひ見てみてください。

第二庭園(外廷エリア)

送迎の門/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

第二の庭は、ここ送迎の門から先のエリアで、入場料を払って見学する博物館はここから始まる。送迎の門右手にあるブースでチケットを購入しよう。送迎の門入って右手には、オーディオガイドのレンタルがあった。オーディオガイドと一緒にカラーマップも配布されるので、ガイドがいない場合は入手しておくことがおすすめ。

イエニチェリ/Wikipedia

この門に区切られたセクション内は「行政の広場」で、皇帝や大宰相・高官たちが行う政治的施設と、宮殿内の食を賄う大きなキッチン、財務省があった。即位式や祝祭等の国主催の行事・式典は、この広場で行われていた。3か月に一度、この庭でイエニチェリ(オスマントルコ軍)の給与支払いも行われていたそうだ。給与支払い時には、豪華な食事とスープが振舞われるのだが、もし兵たちが手を付けなかった場合、それは国に対する不満の現れで、うまくいっていないことを示したそう。各国の大使は、この先にある謁見の間に通されるのだが、この中庭に集い祝う様子を見た各国大使は、帝国の軍事力を見せつけられる、という仕組みだった。また、豪華な細工や飾りのある建物で国の豊かさをも示す目的もあったらしい。

正義の塔(御前会議の場)

正義の塔/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

正義の塔は、イスタンブールのあらゆる場所から見ることができる塔で、オスマン王家の威厳を示す高さで作られたもの。この場で行われる国政会議の正義と公正さを示すものであったのだが、町中で起きる暴動や異変を感知するという役割も担っていた。

正義の塔/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

この建物内で、大宰相を中心とした高官(パシャ)らが会議を行っていた。皇帝は直接その場には参加せず、上階にある格子状の窓から覗き見ていたのだそう。皇帝は、ハレムからこの格子窓がある部屋までこっそりと来ることができたが、高官たちはそれを知っていたため、御前会議はまじめに執り行われたそうだ。

正義の塔/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

御前会議は、週4回のペースで行われ、重要な事項については議事録に記された。『夢の雫、黄金の鳥籠』でも、皇帝がヒュッレムを伴ってこっそりやってきていた場所は、おそらくここであろう。

財務省(武器博物館)

武器博物館/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

「正義の塔」の隣には、レンガ色のドームがある建物がある。オスマン帝国のお金や貴重品類はここに保管されていたそうで、財務省の役割を担っていた。聖地メッカへの奉納金や、皇帝即位に伴う民への祝い金、イエニチェリへの給与支払い分もここから出していたようだ。現在は、世界有数の武器博物館となっている。

宮殿のキッチン

キッチン/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

石畳の長い通路、煙突のあるドームが特徴的な建物はキッチンで、宮殿内での数千人分もの大量の食事を賄っていた。1451年から1481年の間に建てられ、皇帝スレイマンによって増築されたが、1574年に火災にあい、建築士ミマール・シナンによって再建された。10の煙突つきドームがあり、インペリアルキッチン、ロイヤルキッチン、製菓ハウスの3つにわかれている。製菓部門だけで6人のシェフと100人の見習いがいたらしい。

キッチン/トプカプ宮殿・イスタンブール・トルコ

スルタンへの食事は、常時60種類以上が用意されていたそうだ。毒見はまず料理人が自ら行い、次に内廷の味見係が行ったとされるが、すべてについて行っていたわけではないらしい。今は、陶器博物館となっていて、日本から贈られた陶磁器も展示。最近リニューアルされて、厳選された所蔵品を展示するようになり、中には、宮殿内で使われたカトラリーも展示されている。

ズリュフリュ警備隊の詰所

この建物は、ズリュフリュ警備隊の詰所兼宿舎だ。ズリュフリュ警備隊は、トルコ語で「毛の番人」の意味を持ち、長い毛のついた頭飾り、長い襟の制服であったことからこの名前がついたのだとか。宮廷内の警備の他に、戦の際には進軍が容易にできるよう、道を開拓することや、コーランを唱和するなどの役目があったとされる。『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~』にも警備する人やら裏切り者やらでいろいろ出てくるあの人たちのこと、でしょうね。

ズリュフリュ警備隊/画像:文化観光省

建物は15世紀頃に建てられたもので、中には警備隊用のモスクを備えていた。2階建てになっていて、ベテラン兵は上階、新人は下階に寝泊まりしていたそうだ。
第二の中庭にはこの他にも、スルタンの馬小屋、モスクとハマム、記念碑がある。

次ページは、スルタンのプライベートエリアです。

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